裁判員裁判と量刑
村井 敏邦
裁判員裁判の量刑を「あまりに不当」として破棄自判した最高裁判決

 本年7月24日、最高裁判所第1小法廷は、求刑の1・5倍の量刑を行った裁判員裁判の結論を「あまりに不当」として破棄自判した。裁判員裁判の量刑を最高裁判所が破棄自判したのは、はじめてである。
 第1審判決の認定した犯罪事実の要旨は、次のとおりである。
 「被告人両名は,かねて両名の間に生まれた三女にそれぞれ継続的に暴行を加え,かつ,これを相互に認識しつつも制止することなく容認することなどにより共謀を遂げた上,平成22年1月27日午前0時頃,大阪府内の当時の被告人両名の自宅において,被告人Aが,三女(当時1歳8か月)に対し,その顔面を含む頭部分を平手で1回強打して頭部分を床に打ち付けさせるなどの暴行を加え,その結果,急性硬膜下血腫などの傷害を負わせ,同年3月7日午後8時59分頃,同府内の病院において,三女を急性硬膜下血腫に基づく脳腫脹により死亡させた。」
 この事実について、第1審判決は、検察官の各懲役10年の求刑に対し、各懲役15年の刑を言い渡した。その理由は、(1)犯罪行為自体に係る情状(犯情)に関し、@親による児童虐待の傷害致死の行為責任は重大、A態様は甚だ危険で悪質,B結果は重大、C経緯には身勝手な動機による不保護を伴う常習的な児童虐待が存在、D被告人両名の責任に差異なしと評価され、(2)一般情状に関し,@堕落的な生活態度,A罪に向き合わない態度、B犯行以前の暴行に関し責任の一端を被害者の姉である次女(当時3歳)になすり付ける態度が指摘されるということである。
 各懲役15年の量刑とした理由としては、(1)検察官の求刑は,@犯行の背後事情として長期間にわたる不保護が存在することなどの本件児童虐待の悪質性、A責任を次女になすり付けるような被告人両名の態度の問題性を十分に評価したものとは考えられず、(2)同種事犯の量刑傾向といっても、裁判所の量刑検索システムは、登録数が限られている上、量刑を決めるに当たって考慮した要素を全て把握することも困難であるから、各判断の妥当性を検証できないばかりでなく、本件事案との比較を正確に行うことも難しいと考えられ、そうであるなら、児童虐待を防止するための近時の法改正からもうかがえる児童の生命等尊重の要求の高まりを含む社会情勢に鑑み、本件のような行為責任が重大な児童虐待事犯に対しては、今まで以上に厳しい罰を科すことがそうした法改正や社会情勢に適合すると考えられることから、被告人両名に対しては傷害致死罪に定められた法定刑の上限に近い主文の刑が相当であると判断した。
 控訴審判決は、以下の理由により、第1審判決の犯情及び一般情状に関する評価が誤っているとまではいえないとして、弁護人の量刑不当の主張を排斥し、控訴を棄却した。
控訴審判決の理由は、「第1審判決が各懲役15年の量刑をするに際し、(1)検察官の各懲役10年の求刑は、@本件児童虐待の悪質性及びA責任の一端を被害者の姉になすり付けるような被告人両名の態度の問題性を十分に評価したものとは考えられない旨説示した点が誤っているというべき根拠は見当たらず、(2)同種事犯の量刑傾向について説示した点は、量刑検索システムによる検索結果は、これまでの裁判結果を集積したもので、あくまで量刑判断をするに当たって参考となるものにすぎず、法律上も事実上も何らそれを拘束するものではないから、第1審の量刑判断が控訴趣意で主張された検索条件により表示された同種事犯の刑の分布よりも突出して重いものになっていることなどによって直ちに不当であるということはできない。第1審判決の各懲役15年の量刑も、懲役3年以上20年以下という傷害致死罪の法定刑の広い幅の中に本件を位置付けるに当たって、なお選択の余地のある範囲内に収まっているというべきものであって、重過ぎて不当であるとはいえない。」
 これに対して、最高裁判所第1小法廷は、「第1審判決の犯情及び一般情状に関する評価について、これらが誤っているとまではいえないとした原判断は正当である。しかしながら、これを前提としても、被告人両名を各懲役15年とした第1審判決の量刑及びこれを維持した原判断は、是認できない。」として、その理由として,以下のように判示した。
 「我が国の刑法は、一つの構成要件の中に種々の犯罪類型が含まれることを前提に幅広い法定刑を定めている。その上で、裁判においては,行為責任の原則を基礎としつつ、当該犯罪行為にふさわしいと考えられる刑が言い渡されることとなるが、裁判例が集積されることによって、犯罪類型ごとに一定の量刑傾向が示されることとなる。そうした先例の集積それ自体は直ちに法規範性を帯びるものではないが、量刑を決定するに当たって、その目安とされるという意義をもっている。量刑が裁判の判断として是認されるためには、量刑要素が客観的に適切に評価され、結果が公平性を損なわないものであることが求められるが、これまでの量刑傾向を視野に入れて判断がされることは、当該量刑判断のプロセスが適切なものであったことを担保する重要な要素になると考えられるからである。
 この点は、裁判員裁判においても等しく妥当するところである。裁判員制度は、刑事裁判に国民の視点を入れるために導入された。したがって、量刑に関しても、裁判員裁判導入前の先例の集積結果に相応の変容を与えることがあり得ることは当然に想定されていたということができる。その意味では、裁判員裁判において、それが導入される前の量刑傾向を厳密に調査・分析することは求められていないし、ましてや、これに従うことまで求められているわけではない。しかし、裁判員裁判といえども、他の裁判の結果との公平性が保持された適正なものでなければならないことはいうまでもなく、評議に当たっては、これまでのおおまかな量刑の傾向を裁判体の共通認識とした上で、これを出発点として当該事案にふさわしい評議を深めていくことが求められているというべきである。
 「こうした観点に立って、本件第1審判決をみると、「同種事犯のほか死亡結果について故意が認められる事案等の量刑傾向を参照しつつ、この種事犯におけるあるべき量刑等について議論するなどして評議を尽くした」と判示されており、この表現だけを捉えると、おおまかな量刑の傾向を出発点とした上で評議を進めるという上記要請に沿って量刑が決定されたようにも理解されないわけではない。
 しかし、第1審判決は、引き続いて、検察官の求刑については、本件犯行の背後事情である本件幼児虐待の悪質性と被告人両名の態度の問題性を十分に評価していないとし、量刑検索システムで表示される量刑の傾向については、同システムの登録数が十分でなくその判断の妥当性も検証できないとした上で、本件のような行為責任が重大と考えられる児童虐待事犯に対しては、今まで以上に厳しい罰を科すことが法改正や社会情勢に適合するなどと説示して、検察官の求刑を大幅に超過し、法定刑の上限に近い宣告刑を導いている。これによれば、第1審判決は、これまでの傾向に必ずしも同調せず、そこから踏み出した重い量刑が相当であると考えていることは明らかである。もとより、前記のとおり、これまでの傾向を変容させる意図を持って量刑を行うことも、裁判員裁判の役割として直ちに否定されるものではない。しかし、そうした量刑判断が公平性の観点からも是認できるものであるためには、従来の量刑の傾向を前提とすべきではない事情の存在について、裁判体の判断が具体的、説得的に判示されるべきである。
 「これを本件についてみると、指摘された社会情勢等の事情を本件の量刑に強く反映させ、これまでの量刑の傾向から踏み出し、公益の代表者である検察官の懲役10年という求刑を大幅に超える懲役15年という量刑をすることについて、具体的、説得的な根拠が示されているとはいい難い。その結果、本件第1審は、甚だしく不当な量刑判断に至ったものというほかない。同時に、法定刑の中において選択の余地のある範囲内に収まっているというのみで合理的な理由なく第1審判決の量刑を是認した原判決は、甚だしく不当であって、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。」

この判決をめぐる議論

 この判決に対しては、賛否両論がある。弁護士ドットコム登録の弁護士の意見では、賛成が圧倒的で、反対は2名のみであったようである。しかし、マスコミに登場するいわゆる識者の意見は、どちらかといえば、批判的なものが多いように思われる。新聞各社の社説も、裁判員裁判の趣旨を否定しかねないので、裁判員裁判の量刑を覆すのは慎重にあるべきとのものが多く見られた。
 とくに地方紙の社説が厳しい。たとえば、愛媛新聞は「裁判員裁判は、もともと裁判に市民感覚を取り入れる目的で導入されたはず。過去の判例を「お手本に」と言わんばかりの今回の判決は、本来の趣旨に反している。」とし、また、西日本新聞は、「裁判員の量刑 基本は市民感覚のはずだ」という柱の下、「健全な市民感覚を生かすという裁判員制度の根幹に関わる最高裁判決である。あくまで基本は市民感覚だと確認したい。これから裁判員となる市民が萎縮するようなことがあってはならない。」「本来なら量刑と判例についての考え方を示した上で差し戻し、別の裁判員裁判で裁くべきではなかったか。このままでは最高裁の結論だけが最終的な判例として裁判員を拘束する懸念が拭えない。」とする。

裁判員裁判の量刑を覆した控訴審判決

 裁判員裁判の控訴審において、量刑不当として破棄自判したものはいくつかある。東京高判平成23年3月10日(復縁中の元妻の浮気を疑い同女に殴る蹴るの暴行を加えて傷害を負わせ死亡するに至らせた傷害致死被告事件について,懲役12年に処した原判決が量刑不当を理由に破棄され,懲役8年が言い渡された)、大阪高判平成23年5月19日(原判決後に被告人が事実を認めて反省の態度を示し、被害者との間で示談が成立し、被害者側から上申書が提出されていること等の事情を考慮すれば、裁判員裁判における一審重視の要請から実兄の量刑は維持すべきであると考えられるけれども、その刑期の点においては、原判決の量刑をそのまま維持するのは、被告人にいささか酷であるとし、原判決を破棄し、懲役3年4月を言い渡した)、広島高判平成23年5月26日(強盗未遂、強姦致傷事件の控訴審において、被告人の刑事責任は重大というべきであるが、他方で、被害女性に対し、損害賠償金の一部を支払っていること、被告人の反省の態度や謝罪も相応に評価すべきものであること等を考慮すると、被告人を懲役11年に処した原判決の量刑は重きに過ぎるとし、原判決を破棄し、懲役8年を言い渡した)、高松高判平成23年10月11日(6人の女性に対する2件の強姦、3件の強姦未遂、1件の暴行について、第一審の懲役24年を、原判決は、この種事案における犯行の位置付けを低める方向へと働く基本的事情を過小に評価しており、量刑は不当に重いとして破棄し、懲役18年を言い渡した)、大阪高判平成25年2月26日(アスペルガー症候群の精神障害を有する被告人が実の姉を殺害した殺人事件の裁判員裁判の第1審判決において、検察官の懲役16年の求刑を超える量刑をするには慎重な態度が望まれるとしながら、社会内で被告人のアスペルガー症候群という精神障害に対応できる受皿が何ら用意されていないし、その見込みもないという現状の下では、再犯のおそれが更に強く心配されることなどを理由に許される限り長期間刑務所に収容することで内省を深めさせる必要性があるとして懲役20年の判決を言い渡したことに対して、被告人の行為責任の基礎となる本件犯行の実体を正しく評価せず、また、一般情状に関する評価をも誤った結果、不当に重い量刑をしたとして量刑不当を理由に1項破棄して自判し、求刑の範囲内の懲役14年を言い渡した)、東京高判平成25年10月8日(被告人が、約2か月の間に、強盗殺人や現住建造物等放火の各犯行に加え、強盗致傷や強盗強姦、同未遂等の各犯行を次々と敢行したという事案の控訴審において、本件においては、死刑を選択することが真にやむを得ないものとはいえないとし、原判断は、裁判員と裁判官が評議において議論を尽くした結果であるが、無期懲役刑と死刑という質的に異なる刑の選択に誤りがあると判断できる以上、破棄は免れないとして、原判決(死刑判決)を破棄し、被告人を無期懲役に処した)、広島高判平成26年5月27日(原判決後に被害者らに対して損害賠償の一部がなされていることなどを考慮すると、懲役9年とした原判決の量刑は、現時点では重過ぎるに至ったとして、懲役7年に減じた)。
 これらの事件について、上告されたものもあるが、いずれの事案においても最高裁判所は実質的な判断をしめしていない。

最高裁判決の背景

 今回、最高裁判所が裁判員裁判の量刑を覆した背景には、本年5月末までに求刑超えの裁判員裁判判決が49件に上り、裁判官裁判のだいたい10倍のペースであること、一般的に、裁判員裁判の量刑が裁判官裁判の量刑よりも高い傾向があることなどの事実があるとされている。
 しかし、今回の判決が、こうした傾向に歯止めをかけるために出されたと見るのは、いささか早計であろう。最高裁が強調するのは、他の裁判との公平性であって、厳罰化傾向の是正ではない。厳罰化傾向の是正を目指していると見たいところであるが、今回の判決にそこまでの意味を付与することは無理であろう。
 最高裁判所は、なぜ破棄差戻しではなく、破棄自判したのか。とくに、二人の量刑につき差をつけた判断をしている。その差がどうして出てくるのかについての「具体的、説得的」な説明がないという批判がある。第1審の量刑が公平性の観点から不当であるとしても、また、その不当性が二人の被告人の量刑を同等にしていることにあると考えるとしても、もう一度、裁判員裁判に戻して判断させるほうが妥当であったように思われる。

裁判員裁判における上級審の役割

 今回の最高裁判決に対しては、裁判員裁判が一般市民の意見を反映させるという点から導入されたのに、裁判員裁判の量刑を「あまりに不当」として破棄自判するのは、裁判員裁判導入の趣旨を否定しかねないという観点からの批判が多い。たしかに、一般市民の意見を刑事裁判に反映させるという点が裁判員裁判導入の一つの眼目であった。しかし、それだけであろうか。いきさつからするならば、自白の偏重と調書裁判の横行によって刑事裁判が冤罪防止の役割を果たしていないことも、裁判員裁判導入のもう一つの大きな要因ではなかったか。
 この点からするならば、刑事裁判への市民参加は、まずは事実認定に市民の意見を反映させることによって、検察官主導の裁判に歯止めをかけ、被告人の言い分に耳を傾ける傾向が生まれるのではないかということを期待した結果であるということができる。その点では、裁判員の意見を重視するあまり、被告人の人権を侵害する事態が生じるというのは、裁判員裁判導入の意図に反することになる。
 このことは、事実認定の側面だけではなく、量刑の判断の側面についても言い得ることである。上記の趣旨からするならば、量刑判断に一般市民の参加を求めるというのは、必ずしも必要的なことではない。量刑判断については、裁判官の判断にゆだねるという選択も可能であった。この点は、本来は陪審制、あるいは少なくとも韓国の国民参与裁判のような制度の方が理があったように思う。
 裁判員裁判の下でも、量刑については、裁判員の判断を重視するということが、事実認定に比して、必ずしも強く求められることではないというべきである。少なくとも、裁判員裁判の結果が、あまりに被告人に対して厳しすぎる場合には、これを是正する措置が必要ということになる。そこに、裁判員裁判における上級審の役割があるというべきであろう。

最高裁判決の評価

 それでは、7月24日の最高裁の判断は、上記の上級審の役割に沿った妥当なものだったと評価してよいのだろうか。そう簡単には言い切れない。第一に、被告人にとっての苛酷性ではなく、他の裁判との公平性を第一の判断基準にしている。しかも、第二に、具体的な判断基準としては、検察官の求刑をもってきている。第三に、被告人二人の量刑の違いを詳細な事実呈示もなく自判している。
 以上のように、最高裁が裁判員裁判の量刑を覆したことが、裁判員裁判の趣旨に反するという意見には、私は組しないが、他方、今回の判断に賛成もしかねる。すでに述べたように、裁判員裁判の量刑が不当であるとしても、破棄差戻しをすべき事案であった。
 

 
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